インタビュー | 2024.8.27 Tue
『子供たちには、同年代同士で試合ができる環境を作ってあげたい』
そう語るのは、4度のパラリンピック出場を誇り、東京パラリンピックでは銀メダルを獲得した車いすバスケットボール選手、香西宏昭選手。
ドイツで7シーズンにわたりプレーし、日本代表としても世界で活躍した彼は、現在ジュニア世代の育成にも力を注ぎ、その豊富な経験を次世代に伝えています。
今回のインタビューでは、日本の車いすバスケットボール界における育成の現状や、海外での経験について詳しくお話を伺いました。
香西 宏昭 (こうざい ひろあき)
生年月日:1988年7月14日
出身地:千葉県千葉市
所属:NO EXCUSE
経歴:
先天性両下肢欠損の状態で生まれ、12歳で車いすバスケットボールと出会う。名門「千葉ホークス」で本格的に競技を始めた後、高校卒業後、イリノイ大学進学のため単身でアメリカに渡り、2012年と2013年に全米大学リーグでシーズンMVPを2年連続で受賞。
大学卒業後、ドイツ1部リーグでプロデビュー。2017年にRSV Lahn-Dill(アールエスブイランディル)に移籍し、2021-2022シーズンにはチームのリーグ優勝に貢献。また、東京2020パラリンピックでは、3ポイントシュート成功数と成功率で大会1位を記録し、史上初の銀メダル獲得に大きく貢献した。
”WHY”と”HOW”に対してしっかりと伝えること
―香西選手の経歴を拝見すればするほど、さまざまなことをお伺いしたいのですが、今回は、ジュニア世代の育成と海外でのご経験を中心にお話を伺えればと思います。香西選手がメインコーチとして携わっているNO EXCUSE NExt(ノーエクスキューズ・ネクスト)は、ジュニア世代の育成に力を入れていらっしゃいますが、育成に注力し始めた経緯についてお聞かせいただけますでしょうか。
香西)東京パラリンピック以降、車いすバスケットボールの認知が拡大し、各地で体験会の機会が増えました。ただ、実情としては体験会の次にクラブチームなので、ジュニアチームがなく、子供達が同世代の選手と競技をすることが難しい状況です。
僕自身も体験会からクラブチームに入って、大人に混ざって競技をしてましたが、その時感じたこととして周りが大人なので、目の前に見本となるような選手たちがいっぱいいるのはすごくいいことだと思いました。ただ、試合になかなか出られない、リーダーシップを発揮する場がないといったデメリットもあります。その機会が喪失されることに疑問に思ったのがまずきっかけでした。
―ジュニア世代の育成プログラムでは、具体的にどのような内容を取り入れ、どのような指導方針を掲げていらっしゃいますか。
香西)去年の春頃から、トップチームのヘッドコーチである及川晋平さんにいろいろ教わりながら一緒に指導方針などを作っています。去年1年間は、関東近辺に住んでいる子供たちを対象に、障害の有無関係なく練習会を開こうとアカデミーを作りました。
今年度からは本格的に競技をしたい子はチームに入ってもらい、3年後、大人が所属するトップチームで試合に出られるようになることを目的とした”ブリッジプログラム”を作りました。去年始めたアカデミーには全11人参加し、その中から5人がブリッジプログラムに入りました。
―ジュニア世代の指導を通じて、香西選手ご自身のプレースタイルや考え方にどのような変化がありましたか。
香西)プレースタイルは変わっていませんが、教えることで自分への還元を感じています。ひとつひとつのプレーを言語化し、個人に合ったアプローチをしていく中で、自分でも大切なことを改めて再認識することができ、プレーヤーの自分としてもいい方向に働いているなと思います。また、常に子供達から見られている意識を持つことで良いお手本になるようなプレーをしたいし、これからもしていきたいなという気持ちはあります。
―現在のジュニア世代は、”WHY”や”HOW”といった疑問を深く問う傾向があるかと思いますが、そうした質問にどのように対応し、彼らに理解してもらえるように工夫されている点があればお聞かせください。
香西)練習をする意味、なぜ大事なのかをドリルごとに毎回伝えるようにしています。ホワイトボードの所に集まって、ポイントを共有して、練習して、また次のドリルの時に集っています。まだコーチとしては手探りの状態なので、僕自身が教わってきた及川監督、そしてイリノイ大学のマイク・フログリー監督を参考にしています。彼らを見本にしつつも、ちゃんと子供たちに伝えるために自分で言語化する意識も大切にしています。
―香西選手のこれまでのご経験から、良い監督やコーチとはどのような人物だとお考えでしょうか。
香西)まずは”WHY”や”HOWに対して必ず伝えてくれる人です。また、英語ではよく『acknowledge』というのですが、選手に対して承認することだと思います。例えば大学時代にマイク監督が細かいことでも練習中に褒めてくれたことを覚えています。日本人は質問する・褒めることを得意とする人が少ないので、選手達にも常に最初の数ヶ月は質問があったら何でも言ってねと伝えるようにしました。また、結果を求めに行く中の過程で、いっぱい学ぶことがあるということを教えています。
抱いていたイメージは、ただの固定概念だった
―香西選手は学生時代から多くの決断をされてこられたと思います。特に、高校卒業後の2007年に渡米し、イリノイ州のコミュニティカレッジへ進学されていますが、アメリカを意識し始めたきっかけや、その決断の背景についてお聞かせいただけますでしょうか。
香西)車いすバスケを2001年、12歳の頃に始めて、半年後ぐらいに参加した札幌キャンプ(車いすバスケットボールキャンプ)で、特別講師として来られた、当時イリノイ大学兼カナダ代表ヘッドコーチのマイク・フログリーさんとの出会いがきっかけです。当時13歳の僕に、イリノイ大学に来ないかと誘ってくれて、その頃から頭の片隅にマイクさんのところに行って学びたいなと思っていました。高校1年生になった頃、父から「留学をどうしたいのか早く決めて欲しい」と言われました。頭の中ではマイクさんの元でバスケを学んだ方が選手としても成長できるし、留学をすることによって人としても成長できると考えていたものの、親元を離れることや言葉の通じない国に飛び込むことへの不安と恐怖感があり、踏ん切りがつかないでいました。
そんな折、及川さんに相談をし、及川さんから僕に質問を投げかけてくれて、それに対して僕が答える、という方法で僕の思いや考えを言語化させてくださり、一歩踏み出して留学を挑戦することを決め両親にその思いを伝えました。
―渡米後、文化の違いや生活面で戸惑ったことがあればお聞かせいただけますか。
香西)良い戸惑いでした。アメリカ人は我が強いとか、周りの人のことは気にしないというイメージを持っていましたが、すごくアットホームな雰囲気で僕を迎えてくれました。英語が話せない僕に話しかけてくれて、英語に触れる機会を作ろうとしてくれていたんです。アメリカ人だから、日本人だからと勝手にカテゴリー化してしまっていましたが、社会には色々な人たちがいるし、自分が抱いていたイメージは固定概念でしかなかったんだな、と気付けたのは、海外に行って一番良かったことです。
―練習や試合でのコミュニケーションはいかがでしたか。どのような点で難しさや工夫が必要だと感じられましたか。
香西)留学当初は英語力がまだ高くなかったので、何の練習をするのか分からないことはありましたが、パスが回ってこない、リスペクトされていないというようなことは全くありませんでした。徐々に僕の英語力が上がってきて、コーチやチームメイトが何を言っているのかもわかってきてからは分かるようになった分悔しい思いもしました。例えば、チームメイトから「なんでこういうプレーをしたんだよ」と言われても英語力が乏しかったので僕の考えを言い返すことができなかった。ちゃんと理由があるのに伝えられない苦しさがありました。イリノイ大学ではキャプテンも務めましたが、みんなに英語で伝えるのは難しいなとはすごく感じました。ただ日本代表でも副キャプテンを務めましたが、国や人種ではなく、ただただリーダーシップをとるって難しいなと思うことは多かったです(笑)
―大学卒業後にドイツ1部リーグ BG Baskets Hamburg(以下、ハンブルク)に入団されましたが、アメリカでプレーを続けることは選択肢として考えなかったのでしょうか?
香西)アメリカは大人のチームになるとクラブチームしかありません。なのでアメリカで続けるとなると仕事をしながらバスケをすることになります。ヨーロッパは特にドイツ、スペイン、イタリア、トルコ、フランスなどにリーグがあり、盛り上がっているんですよね。イリノイ大学を卒業した先輩選手たちがヨーロッパで活躍しているのをSNSで見て、自分もヨーロッパでプレーしたいなと思っていました。ハンブルクに所属できたのも大学の先輩から連絡が来てHCを紹介してくれたのがきっかけでした。
―ハンブルクに移籍されてから、ドイツでの生活はいかがでしたか?
香西)一番大変だったのは最初の数カ月間は家にインターネットがない環境にいたので、友達や家族となかなか連絡が取れないという寂しさがありましたね。バスケ面では大学からリーグに入って、体格の差は結構感じました。ただイリノイ大学でマイクさんから6年間基礎的な部分をしっかり教わっていたので、体格差に順応できるだけの技術を培うことが出来ていて本当に良かったです。ただ、チーム作りの面から言いますと、ハンブルクには各国の代表クラスの選手たちが集まっていたので、主張のずれをまとめて、チームとして機能させるのは難しいなとすごく感じました。
―2017年に1部リーグの名門クラブRSV Lahn-Dill(以下、ランディル)に入団されましたが、ドイツの名門チームに移籍することになった経緯についてお伺いできますか?
香西)リオパラリンピックの際に日本代表チームとして良い結果を残すことができなくて、自分を変えなくてはいけないと強く思いました。もっと厳しい環境に身を置いて学びたいという気持ちがどんどん強くなっていって、自分からランディルに交渉しました。交渉したのが少し遅かったこともあり、当時のランディルの監督に「来季のチームの構想にはないから、試合に出られるかどうかは正直わからない」と言われたのですが、結局は結果を残せるか残せないかでプレータイムは変わってくるので、全然そんなことは気にしないのでお世話になりたいですと伝えて移籍を決意しました。
―そのような経緯で入団されたものの、初年度はシーズン序盤からスターティングメンバーとして活躍されていました。しかし、その翌シーズン、監督が交代したことで試合に出られる機会が減ってしまったのですね。
香西)移籍した初年度はスタメンとして起用してもらっていました。次のシーズンでは、監督が変わり高さを重視する意向だったのでベンチに座ることが多かったです。なかなか試合に出られない時期は、リオパラリンピックでの後悔を東京パラリンピックに繋げなくてはいけないという思いから、帰国して別の時間の使い方をした方がいいのではないかと悩んでいました。そんな時、当時日本代表のヘッドコーチだった及川さんにもう少し残ってやってみたほうがいいんじゃないか?と言われて、自分が今できることは何かと考えるようになりました。例えば試合中はいつでも試合に出られる準備をして、チームのために盛り上げる。練習中も、スタメン対その他で紅白戦をするときにスタメンを倒すために、自分のチームのメンバーでいろいろ作戦を考えたり、今置かれている状況でベストの動きは何だろうと常に考えていました。
―そのような意識で行動された結果、何か変わったことや学び取ったことはありましたか?
香西)日本代表で、当時試合にあまり出場する機会がなかったものの、チームのために盛り上げる役割を果たしてくれた選手がいました。僕は長い時間試合に出ていました。その選手に「チームのためにいつも盛り上げてくれてありがとう」と伝えたことはあったものの、ランディルで実際に出られなくなった時に、あの時の僕の「ありがとう」は薄かったなと思ったんです。ちゃんとその選手の気持ちをわかってなかったなって。絶対チームに貢献できるという自信があるのに試合に出してもらえないことはすごく悔しいんだなとようやくその時に経験して、感じることができました。それと同時にその選手の強さを感じました。そういう意識が変わったことがきっかけなのか分かりませんが、最終的には試合に出場する時間が少しずつ増えていき6マンという立場でチームに貢献することが出来ました。限られた出場時間の中でのワンプレーの重要さも学ぶことができたので、チームに残ってよかったとすごく思っています。
指導者としても大きく役立っている
あの時間が教えてくれた、バスケの楽しさ
―東京パラリンピックに照準を合わせて、2019年にドイツから東京での活動に切り替わりましたが、2020年に新型コロナウイルスが流行してしまったことで活動が止まってしまいました。開催可否がギリギリまで決まらない中、モチベーションはどのように整えていたのでしょうか。
香西)難しかったです。オリンピック・パラリンピックの開催もできるかどうかという中で、選手としては開催してほしいけど、1人の人間としては開催は難しいだろうなという思いもありました。緊急事態宣言中は、できる限りの準備をする必要があったので家でやれるトレーニングをとにかくするけれど、バスケのことを考えると焦ってしまうので考えるのを避けていました。
―全くバスケに触れない生活を経て、緊急事態宣言が徐々に緩和される中で、練習する機会が増えていったかと思います。その過程で感じたことや思ったことはありますか?
香西)体育館に来て最初にシュートを1本打ったんですが、確か外れたんですね。ただその時のリングにあたった「バーン」って音とか、ドリブルした時のボールの音とか凄い懐かしいなって感じて。バスケって楽しいなって凄い色んな感情が蘇ってきたんです。ずっとプロとして戦ってきて勝たなきゃいけない、決めなきゃいけない、チームを引っ張っていかなきゃいけない、とか色んなプレッシャーの中でバスケをしていたので、純粋にバスケの楽しさを忘れていた部分があったのかもしれません。だから自分にとってバスケって楽しいし大好きなスポーツということを思い出せたあの時間は大事だったのかなと思ってます。
楽しさを再確認出来た
―東京パラリンピック後に再びランディルでプレーすることになりました。バスケの楽しさを再認識した後の海外での戦いは、過去に在籍していた時と心境は大きく変化しましたか。
香西)その当時ランディルはイリノイ大学の時のチームメイトがいて、この選手とまた一緒にプレーしてみたいなと思っていたのもあって楽しかったですね。その選手とは東京パラリンピックの決勝戦でお互い金メダルかけての戦いを経て、ドイツリーグでの再会でした。パラリンピックは無観客開催だったこともあり、もう1回ファンの皆さんが大勢いる中でバスケがしたいなと思ったのもありました。そのシーズン、個人としては初めてドイツリーグで優勝をすることができ、充実したシーズンを過ごすことができました。
―香西選手はメンタルトレーニングにも力を入れていますが、スポーツ選手としてメンタルの重要性についてどのように感じていらっしゃいますか?
香西)リオパラリンピック後から、本格的に個人でメンタルトレーニングをしてもらっています。リオパラリンピックでは大会前から感情の起伏が激しくなり、緊張する日もあれば、逆に自信に満ち溢れる日もあって、自分が自分ではない感覚がありました。大会中にも感情の起伏があって、自分の能力を発揮することができず後悔がたくさんありました。そこでチームのメンタルトレーナーをされていた田中ウルヴェ京さんに個人的にメンタルトレーニングを依頼し、不動心になりたいと伝えました。メンタルトレーニングの結果を可視化することは難しいですが、久しぶりに会う人に変わったと言ってもらえることが増えたので、効果はあったと思います。
―ジュニア世代を指導する中で、子供達にはメンタルコントロールをどのように指導していますか。
香西)コントロールしようとはしてないです。むしろ一喜一憂してほしいと思っています。そこからいろんなことが多分学べると思うので。僕がメンタルトレーニングで学んだことの一つが、安心することはパフォーマンスに悪影響を及ぼすことがあるということ。例えば、試合中に「これ勝ったな」と思うと気が緩んでそれがプレーに影響が出ます。ただ、それは自分で経験しないとわからないんです。なので、ポジティブでもネガティブな感情でも、今はいっぱい感じて欲しいなと思っています。
―海外で活躍する選手の中には、語学の壁でチームに溶け込めない選手もいれば、語学が得意でなくてもチームメイトに愛され、活躍する選手もいます。香西選手ご自身は、その違いについてどのように考えていらっしゃいますか?
香西)一つ目は、その分野で積み重ねてきたものがあるのかないかだと思います。日本の車いすバスケットボールは指導者が少ない中で、どうにか工夫して、誰かのプレーを真似しながら手探りで取り組む選手が多いのが現状です。なのでしっかりと経験を積んだ指導者に教わってきている選手とでは積み重ねている物が変わってくるかと思います。二つ目は、英語力、語学力という意味ではなくコミュニケーション能力。すごいなと思ったのはMLBでプレーしていた川崎宗則さん。上手く英語が話せなくても、自分から輪に飛び込む姿勢がチームメイトから愛されましたよね。日本のスタンディングバスケットボールだとジョシュ・ホーキンソン選手。日本人からすれば日本語を勉強している姿や、ラーメンが好きって言ってくれるだけで親近感がわいて嬉しくなりますよね。自分から仲良くなろうとしているのかどうかもあるのかもしれないです。
ロスを見据え、同年代が競える環境作りに挑む
―今後のキャリアについて、どのような形で車いすバスケットボール界に貢献していきたいですか。
香西)まず選手としては、ロサンゼルスのパラリンピックには出場したいと考えています。パリを逃してしまったことは非常に悔しいですし、ロサンゼルスの大会では40歳になりますが、もう一度あの舞台に立ちたいと思っています。指導者としては、NO EXCUSEに5人の子供たちが入ってくれたので、同年代同士で試合ができる環境を作りたいなと思います。僕が大学で初めて同年代とバスケをすることやスポーツを通じて得られた経験、リーダーシップやライバルとの切磋琢磨の重要性を、彼らにも体験してほしいと考えています。現在はブリッジプログラムに取り組んでいますが、手探りの状態で、計画を立ててまずはやってみて、振り返っては改善案をまた考えて…というふうに進めています。最終的には、日本の中でジュニア世代に向けたしっかりとした仕組みや構造が構築されると良いなと思っています。
―最後にお聞きしたいのですが香西選手にとってプロとは何でしょうか。
香西)常に成長し続ける意識が重要だと思います。今の自分に満足してしまうと、成長は止まってしまいます。だからこそ、より良い結果を残そうとし、成長を常に考えることが大切です。どうすればより良くなれるか、過去の自分に勝てるかを考え続けることが、成長を促すと思います。プロとして活動していたら良い時も悪い時もあります。どのような状況下に於かれていても、常に成長し続けることを考えてさらに上を目指す姿を目指していきたいと考えています。
―貴重なご経験をお話頂きありがとうございました!今後のご活躍も期待しております!
編集後記:自分の経験を吸収し、それを日本車いすバスケットボールの未来に繋げていく姿勢は、プロフェッショナルとしての強さを感じました。言葉の力を改めて感じさせていただいた今回のインタビュー。私もアウトプットをもう少し出来るようにしないとなと改めて考えさせられました(笑)(RDX Japan編集部)
インタビュアー 上村隆介