インタビュー | 2024.5.7 Tue
『亡くなった弟に姉としてやり遂げた自分を見せたい』
彼女は30歳からボクシングを始めたにも関わらず東洋太平洋女子ミニマム級王者に輝いた葉月さな 選手。
彼女の過酷な人生が、ボクシングを始めるきっかけとなりました。
母の失踪、17歳での出産、そして弟の自死。壮絶な半生を経て、彼女はボクサーとしての道を歩み始めました。
今回は、葉月選手のこれまでの軌跡と、今後の展望についてお伺いしました。
葉月 さな (はづき さな)
所属:白銀ジム
生年月日:1984年8月13日
身長:158㎝
出身地:福岡県久留米市
経歴:第7代OPBF東洋太平洋女子ミニマム級王者
WBC女子アトム級シルバー王者
いつも最初のラウンドは緊張します
―直近の試合は3月3日に福岡県福智町金田体育館で行われましたが、この試合を改めて振り返っていかがでしょうか。
葉月選手)対戦相手のジュターティップ・シティチェン選手は戦績だけで見ると、勝ち続けていて、強いイメージだったんです。
―タイの方ですよね、相手選手は。
葉月選手)そうです。実際に試合してみて、すごく腕が長かったんですよ。対峙してるイメージよりも遥かに腕が長くて。だから距離が掴みづらくて。1、2ラウンド目が自分の中で、どうしようってずっと思ってて。
ただ、3ラウンド目からはもう、とりあえずいつも通り練習してるつもりで、軽い気持ちでやろうっていうふうに意識を切り替えられました。それで、リズムがやっとはまりだしたっていう感じです。
―相手の状況を見極めながら途中から試合を進めることが出来たんですね。
葉月選手)そうですね。やはり初めての相手なので、当たり前なんですけど、リズムも呼吸もわからなければ、距離もどのタイミングで打ってくるかもわからないので、最初のラウンドはすごく緊張しますね。
―3月3日に行われた試合が所属する白銀ボクシングジムの初めての興業だったとのことですが、大会の盛り上がりはどうでしたか。
葉月選手)田舎の体育館だったんですが1,000人以上のお客さんも来られてて、結構盛り上がってたと思います。地域の方々はボクシング好きな方が多いようです。
―葉月選手のSNSを見ていると、子供たちのボクシング教室だったり、児童養護施設への支援とかも行っていらっしゃいますよね。こういった活動をされてるのはどういった経緯があるのでしょうか。
葉月選手)児童養護施設で育ったので、自分がそこにいた時に、周りの大人の人たちからの寄付や、差し入れなど色々していただいたのを覚えてて、それがすごく嬉しかったんですね。自分もそうやっていける存在になりたいなって、今この立場になって思ったんです。
―子供たちはボクシング教室がきっかけで、ボクシングを始めてみたいなって思う子も出てきますか。
葉月選手)どうなんでしょう。でも、すごく目をキラキラさせて、こういうのがあるんだって思ってくれていると感じますね。
(本人Instagramから引用)
―昔のボクシングは不良の子が始めるイメージがありましたが、最近は 井上尚弥 選手や 村田諒太 選手の影響からスポーツマンってイメージがありますよね。
葉月選手)ボクシングって拳1つ、自分の努力次第ですごく華やかな世界にたどり着けるじゃないですか。スタートが遅れてようがバックボーンがなかろうが、自分次第でなんとでもなる世界なんですよね。
―バックボーンがなくても、世界を取れるっていいスポーツですよね。
葉月選手)そうですね、私自身が30から始めて、スポーツ経験とかも全くなく、いきなりボクシングの世界に飛び込んだんですよね。自分が施設にいた時もそうだったんですが、「今いる環境って周りのみんなから置いていかれてる」とか「どうせここにいるから自分には何もできない」っていう思いを感じてしまう子もいると思うんです。だから、自分次第っていうところを見せていけたらいいなと思ってます。
小学1年生の時に急に母がいなくなった
―この話しの流れのまま葉月選手の過去についてお伺いさせてください。生まれは福岡県の久留米市とのことですが何歳までいらっしゃったんですか。
葉月選手)中学校を卒業して出たので、15歳ですね。
―小学校1年生の時に、お母様がいなくなってしまったとのことですが、それまではどのようなご家庭だったんですか。
葉月選手)それまでは普通に父と母と弟、私含めて5人で普通の一般家庭のような感じでした。
―小学校1年生の時に、お母様がいなくなってしまって、悲しいご経験をされたと思いますが、その時の状況、言える範囲でいいので教えていただけますか。
葉月選手)夏休み中だったと思うんですけど、朝起きたら母親がいなかったんです。それで父が、母が出てったから探してくるって言って外に探しに出たんです。その日を境に生活は一変しました。祖母が父に私たちを施設に預けるように説得したことで、私と弟達は施設に預けられたってっていう感じですね。
―お父様はいらっしゃいましたけど、お仕事で大変だったこともあって、一緒にずっと暮らすのは難しいと判断されたんですね。
葉月選手)そうですね、父の仕事は現場仕事なので、朝早くから夜遅くまで家を空けるので、近所に住んでた祖母がいつも食事を作りに来てくれてました。ただ、どうしても一人じゃ難しいからっていうことで。
―児童養護施設での生活はどうでしたか。
葉月選手)今振り返ると、すごく恵まれてたなと思ってます。食事も3食お腹いっぱいに食べれるし、おやつもあるし。あとは必ず誰かがそばにいてくれるので、同じ境遇の子だったりとか、1人で過ごすってことがほとんどないんですよね。
すごく幸せだったなと今は思うんですけど、当時で言うと不自由さっていうところがすごく窮屈に感じていました。やはり年上のお兄ちゃん、お姉ちゃんもいるので、そういうのが怖かったり。時代も時代だったので、上下関係がすごく厳しい時代だったので、当時は一刻も早くここを出ていきたいと毎日思っていました。ただ今振り返ると、祖母が父を説得してくれて良かったなと。
弟達と児童養護施設に暮らしながらも、お父さんはたまに会いに来てくれたり一緒に出かけたりしていました。父は年に2回は必ず会いに来てくれていましたね。
(本人提供)
―幼少期の甘えたい年頃だったと思いますが親と会えない寂しさとはどう向き合っていましたか。
葉月選手)今思えば周りの支えがあったから、すごく幸せだったなとは思います。恵まれてないという表現になるとそうなんですけど、たくさんの方が支援してくださってたので、それで言うと十二分に恵まれてたので寂しさも紛れていたと思います。
―その当時熱中してた趣味はありましたか。
葉月選手)小学生の時はクラシックギターをやってたんです。3、4年ぐらい、中学校に上がるまでやってたので、それがすごく一番熱中してたものです。
―熱中してるものがあると嫌なことや寂しい気持ちを紛らわせることが出来るので良いですよね。施設を出たのは中学校を卒業したタイミングですか。
葉月選手)そうですね、高校に進学をしなかったので。当時は進学していない子は施設に残ることができなかったので、父親の所に出て行きました。
―高校に進学しなかった理由はあったんですか。
葉月選手)気づいたら、進学先希望の締め切りが過ぎてて(笑) 特に高校に行きたくないなとか、そういうわけじゃなくて。施設を出たいっていうのはすごくあったので、元々行く気もなかったのかもしれないです。
とりあえず自由が欲しかったですね。周りの同級生の子たちが自由に泊まりに行ったりとかしてるのを見てて、いつも羨ましく感じてました。自由になりたいっていうのはすごく強く思ってました。
―中学生の時はどういう性格でしたか。
葉月選手)すごくだらけた性格でした。芯がなくて、本当に楽な方、楽な方に逃げていくタイプでした。学校の先生から見ても、手に余る感じの子だったんじゃないですかね。
―それは不良とはまた違う、無気力な子って見られてたんですかね。
葉月選手)人によってはそれは不良というのかもしれないし、あまりいい感じではなかったですよ、きっと(笑)
17歳で出産、そして結婚生活3か月で離婚
―施設を出て、お父様と一緒に暮らし始めて生活はどのように変化していきましたか。
葉月選手)結局、あっち行ったりこっち行ったりでした(笑) 元々、当時付き合ってた相手のところに行ってみたり、また友達の家行ってみたりみたいな感じで、住所不定な生活をずっとしてましたね。
―そのあとすぐですよね、ご結婚されたのは。
葉月選手)そうですね、17歳で出産をしたのですが相手は同級生だったので、18歳で一度籍を入れたんですが3ヶ月で離婚しました。それからは、もうずっと1人ですね。
―その当時、出産を決断された時はどんな感情がありましたか。
葉月選手)もう若さゆえというところかなと思います。やはり若い時って恐れないじゃないですか。何も考えてないので。今想像すると、とてもじゃないけどそんな行動はできないと思います。
―出産に関しては周りの方にご相談されたんですか。
葉月選手)急に祖母づてに母親と連絡を取ることができて、母親に再会した後だったので、そこで話しを聞いてもらったり、助けてもらったりしました。
―施設を出てからはお母様ともまた一緒に暮らし始めたとのことですが、子供の頃のような関係には戻らなかったんですよね。
葉月選手)なかなか難しかったですね。
―お母様自身の気持ちが離れたままだったんですかね。
葉月選手)やっぱり子供を置いて行けるような人っていう性格なんだと思います。人間の根底って変わらないんだなっていう感じですかね。
―学生時代の自分と今の自分を比べて、どのように思いますか。
葉月選手)まず何か決めたことを長く続けるっていうことが元々できるタイプではなかったんです。もう毎日毎日ボクシングに熱中している自分にすごいびっくりしてます。こんなに根性がつくんだって(笑) 本当、楽な方に逃げるのが元々の私だったので、葉月さなっていうプロボクサーは、自分目線で見てもある意味憧れの存在になってますね。
―離婚してシングルマザーとしてお仕事、子育に追われた20代を過ごしていたんじゃないかと思うのですけど。体力的にも精神的にも、追い込まれて辛いなと思うことも結構多かったですか。
葉月選手)色々あったんだと思うんですけど、忘れました(笑)
よく女手一人で大変でしたねとか言われるんですけど、もっと大変だったのは息子だろうなと思いますね。私は自分の選んだ道を歩いてただけなので、それに振り回された息子が一番大変だったんだろうなと。
(本人提供)
―息子さんは反抗期がありましたか。
葉月選手)めちゃくちゃ絶賛反抗期です(笑) 去年もずっと連絡を取ってなくて。どこにいるかもよく分からないみたいな感じでした。色々あって今年に入ってしっかりと話をするようになりましたね。
ボクシングは元々息子と一緒に始めたんです。でも息子は3年ぐらいで辞めちゃって、そこから何をしてるかわからない感じだったんですけど、またボクシングを始めようと思ってるみたいです。
―当時、息子さんがボクシングを辞めた理由はなんだったのでしょうか。
葉月選手)今考えると、やはりボクシングがあまりうまくいかない時期だったし、ちゃんと教えてくれる人もいなかったことが理由かなと。私もその時はまだボクシングがすごく未熟だったので、息子がうまくいかない原因が分からなかった。そういうので嫌になったんじゃないですかね。
―自分が成長出来てるのか、出来てないのかが分らないと、つまらなく感じることもありますよね。
葉月選手)そうなんですよ。多分、報われなかったんだろうなと。
弟の死と息子の影響でボクシングに出会った
―ボクシングを始めたのは葉月選手の弟さんが亡くなってしまったことと、息子さんがボクシングを始めたいということがきっかけだったそうですね。その時の状況をお聞かせください。
葉月選手)弟が亡くなってから会社の車庫で、運動がてら軽くボクシングをやってたんですよね。何か物を殴ったりすることって、普段絶対ないじゃないですか。弟のことにとらわれてしまってたので、そういう気持ちとかをぶつけたいと思ってました。勤めてた会社の社長がボクシング経験者なので、見てもらったりもしてて、息子もその時に一緒に遊びでやっていたんです。
その頃に村田諒太選手が億超えの契約金とかのニュースがちょうど流れてて、息子が「俺オリンピックに出てたらめっちゃ稼げるやん」って話をして。
それだったらちゃんとジムに通った方がいいんじゃない?って話しをしたんです。それで、黒木優子さんっていう当時世界ユースチャンピオンで活躍されていた方のジムを見つけた時に、すごく身近に世界っていう舞台に立ってる選手がいるっていうのに触発されたんです。
息子がオリンピックを目指すというすごく大それた目標を掲げるなら、「じゃあ私は世界チャンピオンになるわ!」って。そこから一緒にボクシングを始めました。
その時にリングの上でスポットライトを浴びながら拳を掲げてる自分の姿っていうのを想像しちゃったんですよ。その時にすごく鳥肌が立ったのを覚えてます。
30歳目前で、しかも運動経験もほとんどない。ボクサーはみんな大体スポーツ経験がある人ばっかりじゃないですか。剣道とか、柔道とか、サッカーとか、元々そうやってスポーツをたくさんやってた方ばっかりなので、そんな中に私が入ってて、本当に世界の舞台に立てたらそれってすごい実績を作ってしまうなと思って。
そういうところで弟に対して姉としてやり遂げた自分を見せたいなとか、息子と一緒にやることで、自分が頑張ってもないのに「頑張れ」って言えないなと思ったんですね。だから、自分がまず頑張っている姿を見せて、頑張れっていう言葉に意味を持たせないといけないなと思ったのがきっかけです。
(本人提供)
―実際、ボクシングを始めて、ジムのトレーナーの方から最初どういう評価をもらったんですか。スポーツ経験はないけどセンスはいいなとか言われることもあるじゃないですか。
葉月選手)トレーナーは完全にお手上げ状態(笑) まずロープも跳べなかったので、どこから手をつけていいのやらっていう感じになってましたね。
―本当に基礎の基礎から始めたんですね。
葉月選手)何を教えてあげたらいいんだという感じだったと思いますよ。
―運動神経が悪かったのか、運動するのが元々好きではなかったのですか。
葉月選手)運動をほとんどしてきてないので、運動の仕方がわからないっていう感じですかね。足は速かったんですけどね、小学生の時は。
―でも足が速かったなら運動神経は悪くなかったんじゃないですか。
葉月選手)いや、そんなことはないですね。1度、「えー!」ていう感じでため息をつかれたことがあるので(笑) 本当にそのスタートを見てる人たちは、今の私を見てすごくびっくりしています。
―ボクシングを始めてプロデビューするまでどのぐらいの期間があったんですか。
葉月選手)ちょうど1年ぐらいです。
―1年でプロデビューできるところまで行ったんですね。
葉月選手)当時のデビュー戦を見ていただいた方に、本当にこの子はすごいって思ったよって言っていただいたんです。今、スポンサーになってくださってる方もそうだし、今の会長、白金ジムの会長も、その当時の試合を見て、これは本当に世界に行くかもしれんって思ったって言ってくれてたので、根性があったらしいです。
―そのプロデビュー戦で印象に残ってることはありますか。
葉月選手)すごくビビらされてたんですよ。8オンスで顔を殴られたことが練習ではないので。練習は14オンスで大きめのグローブなんです。だから試合の時に、初めて8オンスで拳が顔に当たると本当に痛いよと、すごく脅してきたんです。
試合が近づくに連れて、すごく怖かったんですけど、いざ始まって相手のパンチをもらっても痛くなかったんですよ。だから1ラウンド終わって、セコンドに戻った時に、セコンドにいる会長に「私強いかもしれん」って言ったんです。
会長は自分が強いって言ってるって思ったみたいで、この子度胸すごいみたいな(笑) 私はもらっても全然痛くないよ、私強いよ、みたいなノリで言ったんですけど、すごくびっくりされました。
―プロデビュー戦から連勝してますよね。連勝出来た要因は何だったのでしょうか。
葉月選手)4回戦はもう勢いというか、気持、根性でなんとかなる、そこが全てだっていう風に思ってたので、それで押し切った感じですね。
この後、岩川選手という元世界チャンピオンに試合を申し込まれたんですが、格が違いすぎて、周囲の人にもこの試合は受けるべきじゃないって言われたんですよ。もう全然相手になんないよって言われて。
でも自分が勝てないから断るのは、息子に私の姿を見せるって言ってたので断るのは違うなと思いました。そもそもスタートがみんなより遅れてるから、勝てなくて当たり前なんですよね。だから、それでも前に進んでいくっていうのを見せたかったので、やるって言いました。結果、大差で負けたんですけど、でもそれでもやってよかったなって思いますね。
―実際、対戦を断ることって多いんですよね。
葉月選手)多いですね。でも私は絶対どの試合でも断らないって決めたんですよ。自分に得があるとか、ないとか、もうそういうのでは決めない。来た話は全部受けるって決めたので、その精神で今もやってます。
―ボクシングの試合って表面は結構フラットなように見えますが、自分が勝てる相手をしっかり選んでますよね。
葉月選手)しっかり選んでますよ、私も結構断られましたから。でもそこで価値を高めて選手としての価値を上げることも必要だなと思ってます。
―試合を継続的に行っていく中で2017年には女子日本アトム級王座にチャレンジしてるんですよね。
葉月選手)そうですね。負けちゃいましたが。
―この試合はどういった経緯で組まれたんですか。
葉月選手)新しく新設されたトーナメントが始まったので、それで勝ち進んでっていう感じですね。
―このチャレンジは目指していた所の一つでもありますよね。
葉月選手)そうですね、この時は本当にボクシングをやっと覚えだしたころで、無駄に変な自信がありました。今思い返すと私らしくなかったなっていうような内容の試合でしたね。
ベルトを獲って嬉しいよりも安堵感が勝った
―この1年後、女子東洋太平洋ミニマム王者となりますが、このタイトルマッチはどのように組まれたんですか。
葉月選手)階級が1つ上になるので、その当時のマネージャーは視野に入れてなかったんですけど私がお願いしたんです。そこで相手陣営にコンタクトを取って挑戦させてくれって話をしたんです。そしたら向こうがあっさり、いいよっていう感じになりました。東洋の試合の前に、挑戦権をかけた決定戦もやりました。
―初めてベルトを獲得した時の気持ちはいかがでしたか。
葉月選手)喜びよりも安堵ですね。目標が世界なので、もし落としたら遠回りになるじゃないですか。だからすごく焦りがあって、喜びよりも安堵感。落とさないでよかったっていう感じで、とにかくホッとしました。
―この時、息子さんからどのように声をかけられましたか。
葉月選手)結構、息子はクールな感じで、あまり熱量を上げるタイプではないんです。でもその試合の時は、ラウンドが始まる時にリング横から「取れるよ頑張れ!」みたいな感じで、すごく大きい声で応援してくれて。その時に「こいつこんな叫ぶことできるんや」ってびっくりしましたね(笑)
―そしてこのタイトルを獲得した後に念願の世界タイトルにチャレンジすることができました。
葉月選手)あれよあれよとランクが1位に入ってて、指名試合っていう感じで行いました。でも、このタイミングでコロナ禍まっただ中になってしまいました。
―だから2020年は1試合もされてないですよね。
葉月選手)そうですね。だから鎖国状態で、そもそも国外に出ることが許されるんだろうかとか、許可がいるんだろうかみたいな感じでしたから。
―悔しいですよね。もうワンステップ上に行けるぞってタイミングで、コロナで試合ができなくなってしまった。
葉月選手)そうですね。東洋の防衛戦が決まってたんですけど、相手がコロナにかかってしまって、流れちゃったんですよね。試合が流れた矢先にその世界戦の話が来たので、そこが目標だったので、断る理由もないなって。
―この試合はコスタリカでの試合になりました。
葉月選手)コスタリカの中で本当に大人気な人なので、すごかったです。国道沿いにビル1個分ぐらいのポスターとか貼ってあるような感じの人で国民的なヒーローでした。
―コスタリカでの試合はアウェイな雰囲気はありましたか。
葉月選手)その時は無観客試合でスタッフの人たちしかいなかったので、アウェイ感っていうのはあんまり感じなかったですね。でも、その次の年もまたすぐ再戦したんですよ。その時は観客がたくさん入ってたんですけど、それでも入場の時もウェルカムな感じでした。頑張れよ葉月!みたいな。全然アウェイ感を感じなかったですね。
―アウェイならではのエピソードはありますか。
葉月選手)2回目の時は、会場が宿泊場所からセスナで移動だったんですよ。そのセスナに乗ってたのが、私とセコンドの1人と、対戦相手と対戦相手の妹と、試合を裁くレフェリーたち。だからここでもう試合が完結するメンバーが揃っていたんです(笑)
―それは、不思議な空間ですね。
葉月選手)みんなで和気あいあいと座っていました。これから試合するとは思えない。なんだこれみたいな(笑)
―ここでは惜しくも負けてしまって、日本でまた試合が組まれるわけですけど、2023年にはWBC女子アトム級シルバー王者となりました。これはどういった経緯で決まったんですか。
葉月選手)4月にタイの方と試合をしたんですけど、その試合が終わった翌日ぐらいにメッセンジャーでオファーが来たんですよ、相手の陣営から。
シルバー戦考えてるからどうだっていう感じで。それでやりますっていう感じでした。
―その時の試合を振り返って今、感じることはありますか。
葉月選手)ボクシング技術でいうと、デニス選手もそんなに高い方ではないんです。ただムエタイを経験してるので、パンチに対してすごく強いだろうなとか、肘とかで受ける選手なので、どうやって倒そうかっていうところが課題でした。
私は呼ばれてる側でアウェイだと思ってたので、絶対ポイントじゃ勝てないだろうなと思ってたんですよ。でも蓋を開けてみたら、すごく公平なジャッジで、判定も全部私の方についていました。
結果、相手の棄権だったんですよね。5ラウンド目かな、相手のおでこにたんこぶができていて、ずっとそこを狙って、めったうちにして、ガードの上からでも当てて、どんどん腫らしていこうと思ったんです。
―シルバー王者になった後の試合はどのようになっているのでしょうか。
葉月選手)本当はシルバーは暫定扱いなんですよ。暫定に代わってシルバーを新しくつくったんですよね、WBCが。ただ暫定は暫定で残っているので、シルバーは正規チャンピオンへの挑戦が1番にあるはずなんですが、うまく機能してないですね。
―シルバー王者を決める試合も後付け感が結構ありますね。
葉月選手)そうなんです、本当は勝ったら正規チャンピオンの挑戦ができるっていう話が出てたんですよね。
ただ、それが流れてしまってて。まあでも、ベルトはベルトですから(笑)
弟が生きた証を映画を通じて証明できた
―話しは変わりますが2022年には葉月選手に密着したドキュメンタリー映画が公開となりました。この映画の話は下本地崇 監督から直接連絡が来たとお聞きしました。
葉月選手)SNSでメッセージをいただいて、プロボクサーを題材に映画を撮りたいということで、いいですよっていう感じでお話を受けました。
―この3年間の密着取材はいかがでしたか。
葉月選手)最初はパーソナルスペースにズカズカ入ってくるなっていうのがあって、すごく苦手だったんですよね(笑) だけど、ドキュメンタリーを取るような方ってそうなんだろうなって思って、途中から慣れました。
―映画を見られた方からの反響はありましたか。
葉月選手)googleとかYahoo!とか、映画の口コミを載せてくださってる方が数名いらっしゃって、それを見た時に、撮ってもらってよかったなって思ったし、弟の生きた証じゃないけど、形として証明できたことがすごいなと思って、不思議な感じでした。
児童養護施設をもっと身近に感じて欲しい
―様々なご経験をされている葉月選手ですが、同じような境遇で悩んだり、苦しんでる子供がいたら、ご自身のご経験からどのように伝えていきたいですか。
葉月選手)自分自身がどのようにありたいかっていうのを決めてしまって、そこに向かって本当にただ毎日、しっかり生きていけば必ず実を結ぶ時が来るっていうところを私が証明したいなっていうのがまずひとつです。
あとは、私自身、児童養護施設にいたので、それをよくすごく苦労してとか、かわいそうっていう目で見られるんですけど、私自身は全くそうではなくて、むしろ一般家庭の子たちよりも恵まれてたんじゃないかって思うところもたくさんありました。でも、そうやって思えるのはやはり周りのみんなの支えのおかげだったんですね。
だから、そういう事をたくさんの人に知ってもらって、今いる子たちに手を差し伸べてもらえるような日本の環境が整えば、もっともっと豊かな子供たちが育っていく環境ができるんじゃないかなと。
あとは、もっと身近に児童養護施設を感じてほしいんですよね。預けることがすごく悪みたいなイメージがどうしてもあるので、子供を預けることで母親失格だったり親失格だって言われるようなイメージを持たれてしまう。でも、そうじゃないんだというところを伝えたいです。苦しい時には、そういう機関に頼ってほしい。虐待とかもやはり行き詰まった結果だと思うので、親子関係が壊れてしまう前の修復するための施設だと認識してもらえれば、もっといろんな家庭が壊れずに済むんじゃないかなとかも最近すごく思っています。
だから、みんなにこの児童養護施設っていうのがあるっていうところをまず知ってもらいたいなって今思ってます。
―助けを求めることが恥ずかしいとか、かっこ悪いと思う文化がありますもんね。
葉月選手)レッテルを貼られるじゃないけど、自分自身もそういうところに頼ることによって、親として駄目なんじゃないかって悩んでしまったりとかもすると思うので、むしろそういうとこに頼れるのが親としての強さだと私は思いますね。
だから、もっともっと有名になって、そういう施設があるんだっていう存在をみんなに知ってもらって、もっと利用してもらえるようになったらいいなと思ってます。
―発信していかないと環境はなかなか変わっていかないですもんね。今後の目標はどのように考えてますか。
葉月選手)今後は、さっきも言ったように有名になること。あとは、息子が一緒にボクシングを始めるって最近言ってくれているので、やるからにはすごく大きな目標を持ちたいので、親子でタイトル獲得したいです。歴史上誰もいないじゃないですか。
親子の年齢で現役でやっていくっていうのは普通ありえないので。それが実現する夢を持てる環境にあると思うので、それだったらそこを目指していかないわけにはいかない。息子と2人で世界タイトルを同時に取るっていうのを目標に、ギネス認定してもらおうと思ってます。
―是非、ギネス認定される親子ボクサーになって欲しいですね。では、最後にお聞きしますが、葉月選手にとってプロとはなんでしょうか。
葉月選手)やはりたくさんの人に見ていただくことで、自分自身を作っていく場所かなと思ってます。やはりアマチュアとか趣味でやっていく分では、みんなの視線っていうのはそこまでないので、しっかり見てもらうことで、理想の自分を作り上げていける場所かなと思います。
―とても濃い人生をお聞かせ頂きありがとうございました!今後のご活躍も期待しております!
編集後記:葉月選手の過酷な人生は、彼女を優れたボクサーへと導いただけでなく、観客をも魅了しています。そして同時に彼女の存在は、年齢や経験が挑戦に対する障害ではないことを証明してくれます。彼女の話しを聞いていると「今度こそ運動を始めるぞ!」と毎回思うのに、次の日にはその気持ちがどこかへ飛んでいく自分に苦笑い。でも、葉月選手から勇気をもらう人も多いことでしょう。これからの人生で、葉月選手はどのような姿を私たちに見せてくれるのか、とても楽しみにしています!(RDX Japan編集部)
インタビュアー 上村隆介