インタビュー | 2023.08.30 Wed
『格闘技は好きでもなく興味もなかった』
プロボクサーとして異色のキャリアを持つ女子ボクサー、藤原 茜選手。
ボクシングとの出会いはなんと27歳。
スイーツ屋さんの経営者、パーソナルトレーナー、そしてプロボクサーと様々な肩書を持つ彼女に
プロボクサーになるまでの道のり、今までのキャリアについてお伺いしました。
藤原 茜
所属:ワタナベボクシングジム
株式会社Rubia 代表取締役
生年月日: 1987年7月18日
身長:165 cm
出身地:千葉県 市川市
ランキング:日本フェザー級1位
※取材時点でのランキング
6月の試合は人として足りないところが出た試合だった
―今年6月に行われたスーパーバンダム級の王者決定戦では惜しくも判定負けでした。この試合の感想をお伺いできますか。
藤原)十分練習に取り組んだ自負はあるのですが、人として足りないところが出た試合だったと思います。前半はポイントが割れて1-1だったのですが、1人が4-0を付けていたので、後半はガンガン出なければならなかった。でも、どこかクールというか、冷めた戦い方を続けてしまい、相手選手にはがむしゃらさがありました。
去年の初めてのタイトルマッチも、今回の試合も、有効打は私、手数は相手選手という戦評がはっきり出ていましたが、結果はドローと判定負け。的確に当てるのは大事ですが、それ以前にジャッジに響く、手数や前に出る姿勢、勝ちへの執着を見せるような戦い方ができていませんでした。
―今まではどのように試合が組まれていたのか教えてください。
藤原)去年、今年に関して言うと、全部タイトルマッチをやらせていただきました。去年6月はチャンピオンサイドからオファーがあり、下馬評も完全に不利でした。ドローでベルトを獲れなかったものの、想像以上に試合を評価してもらえました。このレベルだったらWBAアジアパシフィックのベルトをかけて海外選手を呼んでやってもいいのではということで、12月にモンゴル人選手と試合を組んでいただきました。ところが、対戦相手が化け物みたいに強くて(笑)。ボロ負けし、顔は腫れまくり、またベルトを獲れず。そして今年6月のタイトルマッチも、相手選手側からオファーがありました。オファーが来るということは、要するに『藤原には勝てる』となめられているんですよね。チャンピオン側はリスクを減らして防衛したいので、勝てないと思う相手にオファーは出しませんから。
なめられるのは悔しいことですが、ベルトを獲るチャンスが貰えるのでラッキーなことでもあるんです。ただ、挑戦者は圧倒的で明確な勝ちが必要になるので、精神面も含めてもっともっと実力が必要だと思いました。
―日本人選手と海外選手との試合で違いはありますか?
藤原)あまり変わらないと思います。でも、海外選手は十分な情報がない場合もあるので、わからない怖さはあるかもしれませんね。日本人同士だったらある程度の情報は入ってくるし、タイトルマッチレベルになると映像も十分に見られるので。あと、海外選手はリズム感が違ったり、セコンドの言葉がわからないので次にどのような攻撃で来るか読めなかったり、違いというか、やはりわからない怖さはあるかなと。
―今は試合が決まっていない状況ですが、トレーニングはどのようにされていますか?
藤原)プロ2戦目からお世話になったトレーナーが、今年6月の試合で退職されたんです。6年弱毎日続いた日常が変わって、今後どんな環境でボクシングをするのか、珍しく悩んでしまって。試合後2ヶ月くらいはジムに行ったり行かなかったりしながら過ごしていました。今は新しいトレーナーも決まり、1人で出稽古に行く日を増やしたり、フィジカルのパーソナルトレーニングを受けたりと、外にも出るように変化しました。
―今30半ばくらいのご年齢だと思いますが、年齢と共にトレーニングで変わったことはありますか?
藤原)ボディケアの時間が増えました。練習終わりのストレッチも、ジムが混雑していたら家に帰ってから疲れている部分を入念にしたり、マッサージしたり。あとはシャワーだけで済ませずに、お風呂にも毎日しっかり入るようになりました。練習時間以外の過ごし方は変わったなと思います。
―藤原選手のキャリアは調べていてとても面白い経歴だと思いました。まずはプロボクサーになるまでの道のりをお伺いできますか。
藤原)もともとスポーツテストで学年1位を取るくらい運動が得意で、日本体育大学に進学しました。特に教員になるつもりはなかったのですが、体育の教員免許も取得しました。
卒業後は江戸川区のスポーツ・健康事業の企画や運営を請け負う小さなコンサル会社に就職したのですが、3ヶ月で退職しました。
学生時代にフィットネスクラブでバイトをしていた時にパーソナルトレーナーという職業を知り、とても魅力的だと思っていたので、退職後は資格を取得して、パーソナルトレーナーになろうと決意しました。
退職後は大手のフィットネスジムで働きながらトレーニングと資格の勉強をしつつ、飲食店のバイトも2箇所掛け持ちしながら生活し、その年の夏にトレーナーの資格を取得。フィットネスクラブに業務委託契約をしていただき、パーソナルトレーナーとしての活動を始めました。
―いつ頃からパーソナルトレーナーとして独立を考えていたのでしょうか?
藤原)フィットネスクラブでパーソナルトレーナーをする場合、基本的には雇用契約でなく業務委託契約となることが多いので、トレーナー活動をするにあたっては、そもそもフリーランスとして独立するのが大前提でした。なので、パーソナルトレーナーを目指した時点で独立を考えていたことになりますね。
ただ、始めた頃はクライアントは皆無ですから、お金は入ってこないんです。営業をかけたり、イベントをしたりして、クライアントを徐々に増やしていきました。なので、アルバイトをやめても生活できるレベルになって初めて独立できたと言えるかなと思います。それが24歳くらいの時でした。
27歳までボクシングとは無縁の人生を歩んでいた
―2014年にはファスティングについての書籍も出版されています。出版はいつ頃から考えていたのでしょうか。
藤原)パーソナルトレーナーとして活動するうちに、ダイエットや健康には運動だけでは不十分だと感じて、栄養の勉強をはじめた時に、分子整合医学という学問に出会いました。日本の第一人者の一人である先生のもとで本格的に勉強させてもらうことになり、そこで学んだ食事法のひとつがミネラルファスティング(断食)です。
当時、フィットネス業界ではファスティングというものがほとんど知られていなかったので、業界に持ち込もうと考えました。そのことを、影響力のある人気トレーナーの友人に相談したところ、彼のスタジオで定期的にファスティングや栄養のセミナーをやらせていただくことになったんです。毎月200人以上の方にお話しさせていただいたと思います。わたしは先駆者でも何でもないですが、当時のファスティングブームのきっかけにはなっていたようで、依頼を受けて書籍を出版するに至りました。
なので、考えていたというよりは、流行りのタイミングでオファーをいただいたという感じです。2014年なので27歳ですね。
私が師事していた師匠が、とにかくたくさん勉強させてくださる方で、トレーニング指導だけでなくセミナー講師をさせていただく機会が多かったんです。喋るスキルが鍛えられていましたし、女性トレーナーやファスティングが珍しいというか、競合が少ない時代だったので、仕事として成立しやすかったのもありがたかったです。
代々木にある専門学校のスポーツ科で数年間講師をさせていただいたことなども、20代のキャリア構築の基礎となり、こういった経験が書籍出版に繋がったのだと思います。
―ここまでボクシングとは無縁の人生を歩んでいますね。ボクシングとの出会いとしてご家族に経験者、格闘技ファンがいる方が多い印象ですが、藤原選手はいかがでしょうか。
藤原)父も母も昔はスポーツをしていたみたいですが、ボクシングの経験はありませんでした。私の師匠が和氣慎吾選手というトップボクサーのトレーナーをしていて、和氣選手と一緒に、トレーニングをしたり合宿に行ったりする機会があったんです。彼の試合が初めての観戦で、それがボクシングとの出会いです。それまで格闘技は好きではなく興味もなかったのですが、和氣選手がすごく綺麗なボクシングをしていて、全然野蛮じゃないし、魅力的なスポーツなんだと思って感動しました。何回か試合を観に行くうちに私もやってみようかな、と和氣選手に相談して、ワタナベジムを紹介してもらったんです。入門したのは27歳の頃ですね。
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