GLORY BEYOND DREAMS 藤岡奈穂子選手インタビュー_前編

GloryBeyondDreams藤岡奈穂子選手(前編)-プロ生活に何も心残りはない

インタビュー | 2023.08.18 Fri

『全部やり尽くしたので、何も心残りはないです』

清々しく話す彼女は日本唯一のボクシング世界五階級制覇チャンピオン、藤岡奈穂子選手。
プロのスタートは33歳、そこから14年間も現役生活を送った女子ボクシング界のレジェンド。

なぜボクシングの世界に飛び込んだのか。
なぜボクシングの世界で結果を残せたのか。

女子ボクシングの黎明期を走りぬいた藤岡選手の言葉をここに記します。

藤岡 奈穂子

所属:フリー
生年月日: 1975年8月18日
身長:158 cm
出身地: 宮城県大崎市
獲得タイトル:
初代OPBF東洋太平洋女子ミニフライ級王座
WBC女子世界ストロー級王座
WBA女子世界スーパーフライ級王座
WBCインターナショナルスーパーフライ級王座
WBO女子世界バンタム級王座
WBA女子世界フライ級王座
WBO女子世界ライトフライ級王座

14年間のプロ活動からの卒業

ー4月に最後の試合を終え、5月に引退会見をされました。引退されての心境はいかがでしょうか。

藤岡)全部やり尽くしたので、何も心残りはないです。アマチュアボクシングを始めたのが23歳と遅く、33歳でプロになりました。自分にとってボクシングは、20代中盤で引退するスポーツのイメージだったので、2-3年プロとして活動できればいいなと思っていました。それが14年も現役生活を続けられて、ベルトを一つ取るのでも大変なのに、最終的に世界で5本とることができました。想像以上の成績も残すことができ、本当にやり尽くしたというより、やり過ぎたくらいです。女子プロの道を作るだなんて、そんな思いはなかったのですが、気づいたらそうなっていましたね。

引退会見は所属ジムの竹原慎二&畑山隆則のボクサ・フィットネス・ジムで行われた。

ー会見の時に引退ではなく卒業ですと仰ったのが印象的でした。

藤岡)引退という言葉自体が寂しいですし、自分としては全部やりきったので、卒業という言葉の方が周囲もおめでとうと言いやすいだろうなと。涙もなく笑顔で、本当にやりきったと報告させてもらいました。

ー引退を意識したきっかけは?

藤岡)私は今48歳で、プロになった時は33歳でした。プロテストも32歳までと年齢制限が設けられているのですが、当時プロが立ち上がったばかりで人数も少なかったので、特別措置ですね。始めるのは簡単ですが、終わりにするのはすごく難しくて、着地点を40代になってからはずっと考えていました。お金の問題、契約、試合がなく体を整えることの難しさ、目標がない難さもありました。

ーどのような階級に挑戦したのでしょうか。

藤岡)複数階級に挑戦し、最初にミニマムで軽い階級を取って、3階級上げてスーパーフライを取り、さらに一個上げてバンタムを取り、その後にフライ級に戻りました。体重を筋肉で増やさないといけなく、増量が難しかったです。プロは減量の方がリカバリーが効き、計量が試合前日なので4食食べて-5キロ体重を戻した相手とリングで向き合うと、二回りぐらい大きくなっている時もありました。自分のパンチは効かず、相手のパンチは重いという危うさがありました。

終盤は階級を下げることで絞って調整をしたいのですが、業界内で一度上げた階級を下げると勝てないというジンクスがありました。どうしても大きい人と対戦してきたので、その癖が抜けず、相手は小さくスピードがあるので、コンマ何秒で反応が遅れたりします。

ー現役生活中、どのようなことが大変でしたか?

藤岡)試合が決まらないのが一番しんどかったです。応援してくれている人たちも、挨拶代わりに次の試合日程を聞いてくるので、決まってないと申し訳なさもありました。コロナの時はみんなが同じ状況だったのでしょうがないなと思っていましたが、再開したときのために、目の前のことに集中していたので悲壮感はありませんでした。アメリカでやりたい目標もあり、モチベーションは割とキープできていました。

ー実際アメリカに行かれたんですか?

藤岡)2020年の2月にトレーニングのため渡米し、コロナ渦になる直前に帰国しました。試合に関しては、プロモーターが出す条件を全部飲まなくてはいけない状況でした。初戦は2021年7月にロサンゼルスで行い、次戦も2022年4月にロサンゼルスで行う予定でしたが、日程も変更になり、場所も相手選手有利のホームになりましたが、試合のチャンスはそこしかないので行きました。負けたので引退すると言った直後に、プロモーターの副社長からアメリカにもう一度呼ぶと言われ、自分の需要がアメリカにあるのであれば、どんな形でも良いと思い引退を撤回しました。その後、自分で再び渡米しトレーニングをしたり、やれることは全部やって、それでも試合が決まらなかったので、1年という期限を設け引退するに至りました。

試合のオファーもなく、こちらから問いかけても進捗がない状態で、アメリカのビザがあった方が試合が組みやすいと思ったのですがなかなか進まなかったのでもう潮時だと思いました。本当にシビアですけど、特にアメリカでは選手は商品なので、本土の選手でさえなかなか試合が組めない状況なので、そこに日本人が食い込むのは難しいと思い、清々しく引退を決意しました。

自信を取り戻したいと思いボクシングを始めた

ーボクシングを始めたきっかけは?

藤岡)ボクシングを始める前は、中学校から実業団まで10年間ソフトボールをしており、実業団ではキャプテンも務め国体にも出場しました。宮城県の弱電関連の会社の実業団創業メンバーとなり、ポジションはショートを中心にサードとピッチャーも担っていました。ソフトボールを一生するんだろうなと思っていたのですが、社長に、お前の代わりはいくらでもいる、と言われたことを機に自信をなくし、ソフトボールをやめてしまいました。会社を辞めて、実家に戻り、これから何をしようかと考えた際に、自信をなくしたままの自分でいるのがしんどかったので、自信を取り戻したいと思い、今度はチームプレーではなくて、個人競技に挑戦しようと思い、ボクシングを始めました。経験もなく、試合もあまり観たこともなく、周囲に経験者もいない中、本当に直感でスタートしました。周囲の方も、運動不足解消でやっているだろうなと思っていたと思います。でも自分は、試合に出たいですと言ってジムに入りました。

ーどのようなジムに入られたんですか?

藤岡)宮城県の実家の同じ町中で、ボクシングジムがあることすら知らなかったのですが、実際に行ってみたら、公民館でした。リングもないし、サンドバックも引きずり出してきて手作りの金属製のスタンドへかけて使用するような場所で、週3回、夜の2時間しか借りられない中で、残業がないように仕事も工夫しながら通っていました。当時は仕事が終わってから一度家に帰り、19時から21時まで練習、その後、家に帰ってご飯を食べる生活を送っていました。

当時は公式試合に勝ったら自信がつくのではないかなと思っていました。しかし、女子はアマチュアの連盟にまだ公認されていなかったので、スパーリング大会しかないことを後から知りました。1年間は練習が必要と言われていたので、自分より20キロくらい大きいおじさんと、国体選手たちにボコボコにされながら練習して、女性だからとか関係なかったです。

ースパーリングの大会はどうでしたか?

藤岡)女子だけの大会で、競技人口がいないので予選がなく、いきなり全国大会に出場し、1試合だけのために兵庫県まで行ったのが24歳の時でした。初めて上がったリングの閉塞感に驚きながらも勢いで攻めた結果、気づいたら相手が倒れていてKO勝ちでした。2分3ラウンドと短い時間だったので、作戦はなく、とにかく手数を多く打ちました。

試合に勝利したことももちろん嬉しかったのですが、その時初めて実業団の社長にありがとうと思えました。感謝ができた時に、すごく自分に勝った感じがして、それでますます自信がつきました。

アマチュア時代は国内無敗、アジア大会でも好成績を収めた

人生一度きり、運試しのつもりで上京

ー自分に自信を取り戻すというボクシングを始めた目的は達成しましたが、それからもどうしてボクシングを続けたのでしょうか?

藤岡)倒したという感覚が面白くなりました。毎年大会に出るようになり、2005-6年に女子も男子と同じアマチュアの連盟に入れると認められて、2008年にプロがスタートしました。プロになるには東京に出る必要があり、東京は遊びに行くのはいいけど住む所ではないと思っていたので私はプロになる気はなかったのですが、うちのジムでプロにならないかとオファーがあって、最初は断ったのですか、2度のお誘いをいただき、2009年、33歳の時にプロになることを決意しました。

プロテストは32歳までだったので、特別に1回だけテストを受けられるチャンスであること、他のアマチュア選手が皆プロに転向して、自分の方が強いと思っている選手が世界チャンピオンになった姿を見て、自分も世界チャンピオンになれたのにと言うのはかっこ悪いなと思いました。人生一度きりだし、運試しのつもりで上京し、最初はいつでも帰れるようにスーツケース1個できて、布団だけ買って、長めの合宿と自分に言い聞かせていました。

藤岡 奈穂子

RDX sports japanは
藤岡 奈穂子選手を応援しています。