GLORY BEYOND DREAMS 中村 優也 インタビュー

インタビュー | 2025.10.30 Thu

右目を失っても、拳を下ろさなかった男がいる

自らを「隻眼の士(せきがんのさむらい)」と名乗るボクサー、中村優也。

フィリピン国フライ級、タイ国バンタム級、WBCアジアバンタム級王座を戴冠し、日本ではプロライセンスを持たず世界を渡り歩いてきた異例のファイター。

網膜剥離による右目の失明、そして引退の決断。
それでも彼はリングに戻ってきた。

「まだ終われない。片目になっても戦えることを証明したい。そして、亡き父と息子にベルトを見せたい」

ボクサー中村優也の、最後の“挑戦”について今回お話をお伺いしました。

中村 優也 (なかむら ゆうや)

所属:TABBY-PERSONALGYM 代表
生年月日:1990年5月4日
身長:171 cm
出身地: 大阪府八尾市

経歴:フィリピン国フライ級、タイ国バンタム級、WBCアジアバンタム級王座を戴冠し、日本ではプロライセンスを持たず世界各地でリングに立ってきた異例のボクサー。右目の網膜剥離による失明を抱えながらも闘い続け、自らを「隻眼の士」と名乗るその姿勢は、多くのファイターに刺激を与えている。

片目を失っても
リングに立ち続ける理由

ー2023年12月の前回取材では、引退を決意されたお話を伺いました。その後、どのような経緯で現役復帰を決められたのでしょうか?

中村)ジムは自分で運営しているので、引退後も練習は続けていました。ただ、ある日を境に右目が“失明扱い”になってしまったんですね。何度も手術しては再剥離し網膜剥離のダメージで、障害認定の話も出たので正直その頃は「ボクサーとしてはもうできんな」と思いました。

でも調べると、世界には片目の不自由を抱えながら戦っている格闘家もいるんです。たとえば日本人で言うとムエタイの武田幸三さん。彼は「片目のチャンピオン」と呼ばれ、視力を殆ど失いながらも片目で戦った。そういう存在を知ったとき、「自分もまだできるんじゃないか?ボクシング界には片目のチャンピオンはおらへん。おもしろい!俺やったらやれる!」って思ったんです。

後天的な障害なら、生活の中で身体が慣れていく。トレーニングの仕方を変えてみると、思った以上に動けることに気づきました。だから「まだできる」と感じて再度リングに上がりました。

ーその状態から現役復帰したことは驚きましたよ。

中村)妻はあきれ顔です。「まだやるの?もう勝手にしてください」と呆れられています(笑) でも自分には父の死と、幼い子どもの存在が大きいんです。子どもは今2歳で、少しずついろいろ分かるようになってきている。だからかっこよくて強いボクサーとしてのパッパを見せたいんです。(パッパとは子供から呼ばれています(笑)

父が亡くなったことも、自分の中では大きな出来事でした。まだ墓前に自分らしい物を何も手向けられてあげられてない。その経験が「このままでは終われない」と思わせたんです。だからこそベルトを獲る姿を、海外で戦う士(サムライ)の姿を、息子の士葵(しき)に見せたいし、最後にもう一度やり切って、天国の父にも胸を張りたいと強く思っています。

ボクサー・中村優也を支える妻・香澄さんと、息子の士葵(しき)くん

ー以前の取材では「プロライセンスが更新できなかった」と伺いました。今回の復帰にあたって、ライセンス面での問題はどのようにクリアされたのでしょうか?

中村)目の状態があるので、フィリピンのようなコミッションが厳しい国ではライセンスは通らない。ただインドネシアは少し事情が違います。コミッションがいくつかあって、規定も比較的ゆるくてライセンスがなくても立てる舞台がある。なのでライセンスが必要ないゆるいコミッションを選びました。

不可解な判定が最後では
ボクサー人生を終われない

ー2024年7月には現役復帰して、インドネシアで試合を行いましたね。

中村)あの試合は今でも鮮明に覚えています。序盤から手応えがあったんです。ジャブで相手のリズムを崩し、ボディを効かせて、3ラウンド目に右ストレートを当てたら相手が倒れたんです。普通ならそこでKOになる流れでした。

ところが試合は止められず、そのまま続行になった。相手はもう動けず、クリンチや逃げの姿勢ばかりでまともに打ち合わなかった。それでも最後まで試合が進み、判定に持ち込まれました。

結果はまさかの「ドロー」。耳を疑いました。ダウンを取って、展開もこちらが圧倒していたのに、KOではなく引き分けにされた。正直その瞬間は怒りよりも「なんでやねん」という気持ちの方が強かったです。

本当はあの試合で引退するつもりでした。でもあの終わり方では納得できなかった。勝っても負けても引退と決めていたけどドローという結果に納得できなかった。だからこそ「まだやらなあかん」と思ったんです。あの不可解な判定が、今の自分をもう一度リングに立たせているのは間違いないですね。

引退を覚悟して挑んだ復帰戦(2024年7月14日)

ーこれまでもアウェイで戦う難しさを経験されてきましたが、今回もやはりその厳しさがついて回りますね。

中村)実はインドネシアで、自分が少し干されていたみたいなんです。本当はもっと早く試合を決めたかったのに、なかなか決まらなかった。その理由の一つが、インドネシアでは挑発的な態度や暴言がすごく嫌われるからだと思います。
自分はリング上でアピールをやりすぎてしまって、それが現地では「無礼」と受け取られてしまった。試合内容以上に、そういう振る舞いが受け入れられなかったのかもしれません。

ー11月15日には最後のベルトをかけた試合がインドネシアで行われます。前回のSULIS選手は結局出場しませんでしたが、やはりドローとはいえ次に戦っても勝てないと感じたからなんでしょうか?

中村)勝てないと思ったから、再戦を避けたんでしょうね。試合中からもそれは感じていましたし、次にやっても勝ち切る自信がなかったからこそ、試合自体が組まれなかったんだと思います。

今回の相手は今回の相手はSULIS選手の代役のFEBRI選手、正直情報はほとんどありません。でも調べても出てこないと言うことはその程度のレベルの選手かな?と。まあ僕は誰が相手でもやる事は同じです。前に出て思いっきり殴るだけですので誰が相手でも大丈夫です。

ただ判定になれば負けると思っています。だからこそ1ラウンドからゴングがなった瞬間から倒しに行くしかないと腹を括っています。前回の反省もあり、今回は日本からグローブを2種類用意して持っていきます。前にこちらが合皮向こうが本革のグローブでの試合をさせられた為。もう余計なトラブルでストレスは感じたくないです。あとゴングが鳴ったらやるだけです。

海外での最後の試合をインドネシアで行う(2025年11月15日)

最後は自分の興行で
区切りを付ける

ー引退まで残り2試合となりますが、今の身体の状態はどうですか?

中村)めちゃくちゃいいです。年齢は35歳ですけど、スピードもパワーもむしろ上がっている感覚があります。むしろ経験を積んだ分、技術の幅が広がっている感覚があります。ただ、目は替えがきかない。だから今年で区切りをつけると決めました。11月のインドネシア戦、そして12月14日の引退試合。この2試合でボクシング選手としては終わります。

ー引退試合の舞台を主催イベント「RIOT BOXING」に選ばれたのは、最後は日本で雄姿を見せたいというお気持ちもあったからでしょうか?

中村)海外の試合だとなかなかみんな応援に来れないですからね(笑) 対戦相手は元WBC世界12位の大先輩、戎岡淳一さんです。もともと海外で世界ランカーとして戦ってきた方で、自分と境遇も似ている。ずっと一度はやりたいと思っていました。引退を決めた時、最後はこの人とボクシングをしたいとお願いしたら、快く受け入れてくれて「最後に気持ちいい殴り合いをしよう」と言ってくれました。

ヘッドギアなしで、グローブも10オンスで殴り合う。昔ながらのボクシングの形で、真正面からぶつかりたいと思っています。自分のボクサー人生を締めくくるには、ふさわしい相手です。

ラストマッチの舞台は、自らが主催するRIOT BOXING

ー自主興行「RIOT BOXING」ももう初開催から3年になりますね。この3年間大会運営をしてきてどう感じていますか?

中村)始めた当初は「自分一人で本当に大会なんてできるのか」と不安でした。スポンサー探しも簡単ではなくて、「ボクシングは危ない」と断られることも多かった。だから最初は知り合いの居酒屋さんや工務店にお願いして、少しずつ支えてもらってきました。

大会をするとなるとリングの設営、照明や音響のチェック、MCの段取り、全部自分が走り回ってやっています。運営と選手の両方をやるのは本当に大変です。でも観客が「面白かった」「また来たい」と言ってくれると、全部報われますね。

ーRIOT BOXINGの理念は運営当初から変わってないですか?

中村)理念は最初から変わってないですね。「前に出るやつが強い」。それだけです。ヘッドギアも付けず、軽いグローブで打ち合う。観客にも分かりやすいし、迫力もある。だから最初からずっとそれを大事にしてきましたし、今も変えるつもりはありません。

自分以外を主役に
することが次の使命

ー引退後については、どのように考えていますか?

中村)男に生まれた以上は、ずっと挑戦を続けなあかんと思っています。使命みたいなもんですね。自分は「かっこよくいたい」という気持ちが強い。何かに向かって頑張っている自分でいたいんです。

だから次の挑戦として考えているのがパラリンピックです。とくにブラインドサッカーに挑戦したい。視覚に障害があっても挑戦できる競技ですし、日本でも競技人口は増えていて、国際的にも広がっている。自分にとっては自然な流れだと思っています。

ー引退後からパラリンピックを目指すというのは2023年12月に引退された時も仰っていましたよね。

中村)今年いっぱいでボクシングに区切りをつけて、来年から切り替えるつもりです。3年後の大会に出られるかは正直難しいかもしれない。でも7年後ならまだ40代前半。動けるうちに挑戦してみたい。可能性は低くても、やらずに終わるのは嫌なんです。

リングの外では、GLITTER JAPAN 2025でランウェイにも立った

ー引退後はボクシングとはどのように向き合っていきたいと考えてますか?

中村)去年うちのジムからデビューした後輩をインドネシアに連れていって、試合を経験させました。まだ22歳なんですけど、海外デビュー戦でキャリア30戦の相手とタイトルマッチをし判定では敗れましたが、こういった形で僕の次のワールドチャレンジしていくやつらを次の世代に繋げていっています。

ー次は選手や大会をサポートする役割に回るんですね。

中村)ずっと主役としてやってきましたけど、こうやって後輩をサポートするのも嬉しいです。自分が主役を降りて、若い世代やボクシング素人だった人を主役にできるのは意味のあることやと思っています。

以前、妻の兄の友人が、ジムに練習に来ていたんです。全くの素人で、健康のためにやっていただけやったんですけど、「試合に出てみませんか」と声をかけたんです。最初は冗談みたいなやり取りでしたけど、結局リングに上がった。

相手は格闘技経験のある人でしたけど、ダウンを奪って勝ったんですよ。その後に「こんな経験ができるとは思わなかった。人生の宝になった」と言ってもらえて、自分の方が胸いっぱいになりましたね。

普段は普通の社会人でも、リングに立つことで特別な経験をして、その人の人生の一部になる。そういうのを見ていると、「自分が人に何かを与えられる立場になったんやな」と実感します。だからこれからは、選手としてよりもトレーナーやプロモーターとして、若い子や仲間をサポートすることに力を入れていきたいです。

ー最後にお伺いしたいのですが中村さんにとって、ボクシングとは何でしょうか。

中村)僕はボクシングで右目の視力を失いました。でも一度も「最悪や」とは思ったことはありません。むしろ後悔はないです。

WBCアジアのベルトを獲得できたし、世界チャンピオンとも戦えた。試合の映像はYouTubeで200万回以上再生されて、世界中の人に見てもらえた。スポンサーや仲間に支えられて、いまもこうして自主興行を続けられている。こんな好き勝手な人生を歩んできたけど家族にも恵まれている。全部ボクシングのおかげです。

もしボクシングをやっていなかったら、今の自分は絶対にいない。だからボクシングは自分にとって「かけがえのないもの」、人生の大半を占める存在です。
人によっては「ボクシングなんて危ない」「無駄や」と思うかもしれないけど、自分にとっては最高のものに出会えたと思っています。

ー再びこのようにお話を伺う機会をいただけたこと、心から感謝しています。どうか、これからの人生も“中村優也らしく”思い切り挑戦してください。

挑戦し続ける限り、中村優也は終わらない

編集後記:中村さんと話していると、もっといろいろな経験を聞いてみたくなる、そんな不思議な魅力を持った方です。右目を失ったことを後悔するどころか、代わりに得たものの方が多いと話す姿には、強い説得力と物語性があります。そこに人々が尊敬を寄せる理由があるのだと感じました。まだ30代半ば。挑戦は終わっていないし、「中村優也」という物語はこれからも続いていきます。これからどんな景色を見せてくれるのか、同じ時代にその歩みを見られることを嬉しく思います。(RDX Japan編集部)

インタビュアー  上村隆介

中村 優也

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