インタビュー | 2024.2.26 Mon
『唯一無二の自分のプロボクシング生活に満足しています』
彼はフリーランスボクサーとして世界中を回って戦ってきた中村 優也さん。
彼のボクシング人生は一言では言い表すことが出来ない。
その道は挑戦と奮闘の連続であり、決して単純ではない。
世界チャンピオンと戦い、世界の様々な国で戦い、WBCアジアのベルトも獲得。
なにより誰にでも話せる唯一無二のプロボクシング生活に満足していると語る。
ただ、その代償として彼は右目を失っている。
一枚岩では行かない中村さんのボクシング人生を今回、伺う機会を得られました。
中村 優也 (なかむら ゆうや)
所属:TABBY-PERSONALGYM 代表
生年月日:1990年5月4日
身長:171 cm
出身地: 大阪府八尾市
経歴:
WBFアジアスーパーフライ級王座
WBCアジアバンタム級王座
ABFアジアバンタム級王座
WBKアジアスーパーバンタム級王座
その他、多数
右目が全く見えない、引退せざるを得なかった
―2023年12月に約10年の現役生活を終えられたとのことで、まずは現役生活お疲れ様でした。引退を決められたのはどのタイミングだったのでしょうか。
中村)正直、自分で決めたタイミングじゃないので。「辞めないとしゃあないな」という気持ちだったので、複雑でした。
―右目の視力を失ったことが引退の理由とSNSに投稿されていましたが、現在、目はどのような状態なのでしょうか。
中村)それぞれの目を3回ずつ手術していて。左目が第四脳神経麻痺っていうのになっていて、目の見えてる部分のピントが合わないんです。右目は網膜剥離に再剥離を繰り返し、今は全く見えない状態です。これはもうできないなっていうのが理由です。
―それは試合で受けたダメージが一番の理由なのでしょうか。
中村)試合のダメージの蓄積だと思います。多い年は1年間で8試合とか9試合とかしたので。
―フリーランスボクサーの方と私は話すのが初めてなのですが、他にもフリーランスで活動されている方はいらっしゃるのでしょうか。
中村)日本はプロボクシングもアマチュアボクシングもしっかり協会があるのであんまり居ないと思います。日本人でプロボクシング協会に加盟せずに海外でフリーランスボクサーとしてやったのは、多分僕が最初ですね。
―フリーランスで活動していこうと思った理由を教えてください。
中村)高校、大学とアマチュアボクシングをやっていたのですが、大学中退後にたまたまジムで練習している時に、「海外で試合をやらないか?」っていう話が、ジム繋がりで回ってきたんです。
本当は日本でプロになるためにジムを探していたんですけど、うまくいっていない時期だった。それで、海外のプロボクシングの世界ってどうなんだろうと気になったのでやります、みたいな。
海外でデビュー戦をした時の会場は、中国の北京にある5つ星ホテルでした。お金持ちの人ばっかりで、ボクシングというよりショーやイベントみたいな感じ。すごい豪華なところだったので、海外のボクシングって華があっていいなと思ったのがきっかけですね。
日本人で同じようなことをやってる人もいないですし、僕なら絶対行けるっていう変な自信があったので。これはお金貯めてまず海外に行かなあかん、と思って。
その半年後ぐらいにフィリピンに修行しに行ってっていう流れで、フリーランスの活動をスタートしました。
(本人Instagramから引用)
喧嘩が強くなりたいという気持ちで空手を始めた
―過去の中村さんの経歴もお聞きしたいのですが、幼少期から学生時代はどのように過ごしておりましたか。子供の頃から格闘技はされていたのでしょうか。
中村)出身は大阪府八尾市なんですが、親父が結構厳しい人で、喧嘩で負けて帰ってきたらしばかれて正座させられていましたね(笑)
当時は喧嘩強い子とかが空手やってたりもしたので、小学生で空手を習い始めました。
それで、中1の時に全国大会で、ベスト8までいきました。でも、その当時は体重も軽く、極真空手は顔面パンチとかもないですし、「面白くないな」と思ってたんです。
その当時、魔裟斗選手が好きだったのと、魔裟斗選手がボクシングをやっていたことも知っていたのでボクシングをやってみたいなと思い始めました。高校に行く理由もなかったので、ボクシング部がある高校やったら学校が続くかな、と思ってボクシングが強い奈良工業高校を選びました。
―今のエピソードを聞いていると子供の頃はやんちゃな性格だったのかなと思うのですが、改めて思い返すといかがですか。
中村)そうですね、両親に沢山迷惑をかけました(笑)
自分が強いっていう自信があったのもあって、もっと喧嘩が強くなりたいとか、あほな事思ってましたし、今も昔も強くなりたいとはずっと思っています。まあ、お調子者ですね(笑)
―小中学校時代には、ラグビーもやられていたと聞きました。都内だと小中学校にラグビー部があるイメージがあまりないのですが大阪では多かったのでしょうか。
中村)うちの小学校では野球やサッカーよりラグビーが流行っていたので誘われた時にやってみようかなと思い始めました。それで、僕は20人近くいる面子の中で2番手だったんですけど、チームの中で、 一番手の子っていうのがやっぱりいつも目立ってて。僕はサッカーでいうアシストみたいなポジションをやったので、「ここでは輝かれへんな」と思ってました。
それで高校では個人スポーツのボクシング部を選んで、インターハイも国体も選抜にも出ました。
―大学に進学したのは、ボクシング部に入部するためでしょうか。
中村)そうですね。ボクシング推薦で大学へは入学しましたが、1年で中退しました。
ライトフライ級(当時48kg以下)という階級で推薦を取ってもらったんです。それでリーグ戦は全部出してもらったんですが大学生になってくると、やっぱフィジカルの差っていうのが出てくるし、減量もきつかったので、正直勝てないんですよね。
それで階級を上げさせてほしいって言ったら、「ライトフライで推薦でとってるから階級は変えられない」と言われたんです。
あと、当時の大阪商業大学はリーグ戦で優勝争いするようなレベルだったんですが、リーグ戦の結果が最下位から2番目とかで。 「これはここにおる意味ないし時間の無駄やな」と思って中退しました。
―大学中退後にすぐプロボクサーとしてやっていこうと決められたんですか。
中村)初めはジムに通って社会人やりながらアマチュアボクシングやってたんです。
アマチュアの全日本ランキングってのがあるんですよね。全日本社会人選手権を優勝したら、アマチュアの全日本ランキングの10位に入るっていうので。結果を残したくて、ランキングだけでも入りたいなと思ってやってました。結果は負けちゃって、3位で終わったんですけどね。
アマチュアとして続けるにしても、来年まで待つのもめんどくさいなと思ってプロとしてやっていこうと思ったんです。ただ、いいボクシングジムが近くにないので、プロを目指すにも兵庫から外に出ていかなあかんなとか、空手もそれなりにやってたので、キックボクシングもやりたいなとか色々悩んでいました。そのタイミングでたまたまボクシングのプロの試合の話があったので、1回やってみたら自分でなんか答えが出るかなと思って出場したのがきっかけですね。
言ったらキリがないぐらい、アウェイの洗礼を受けてきた
―中村さんは海外で多くの試合を行って、様々なタイトルを取っていますよね。
中村)海外って結構いろんなタイトルがあるんですよ。メジャー団体もマイナー団体もタイトルがあるので、当時はベルトいっぱい持ってたらかっこいいなと思って戦ってました(笑)
―対戦相手を決める時、フリーの場合どうやって決めるのですか。
中村)試合の連絡が直接来るんです。いつ、どこで、対戦相手がだれだれ、ファイトマネーはいくら、という感じで。移動費や宿泊費に関しても航空券、ホテル、チケットは1枚、セコンドの分も入れてチケット2枚必要か?とか。
それでこちらも条件を付けてやり取りして交渉するみたいな。
やり取りのスタートは、僕のマネージャーに連絡が入って、マネージャーから僕に連絡が来たり。または、マッチメーカーから直接僕に来たりと、その当時はFacebook が主流だったので、Facebookメッセンジャーを使って海外の人とやり取りするという感じでしたね。
―プロライセンスを取ったのはフィリピンとのことですが、フィリピンのプロライセンスを取ったのはいつですか。
中村)初めてフィリピンに行った時に試合が決まって取りました。
―東南アジアをメインで戦ってるのは、フィリピンのライセンスを持っているのも理由ですか。
中村)マネージャーがフィリピン人でフィリピン以外にタイ、インドネシア、韓国、中国とのマネージメントが達者な人だったんです。 内容は別として、試合は定期的に組んでくれていたので、東南アジアでの試合が多かったですね。
(写真は2019年のライセンス証明書)
(本人提供)
―ライセンスはフィリピンでも国籍は日本ですよね。 試合の時の会場の雰囲気はアウェイの空気感になるんですか。
中村)日本で日本人が、外国人を呼んでやってる時と一緒で、正直厳しいですね。倒さないと勝てないとか。ダウンを取らんと明確なポイントがつけられないっていうのがあったので、嫌な思いをしたことは何度もあります。
だからこそ海外での一勝は本当に大きかった。
―アウェイの洗礼で、印象的なエピソードを教えてください。
中村)中国でやった時の体重計は、真ん中、左側、右側と体を傾けた乗り方をすると3キロぐらい前後していたんです。後からそれは知ったんですけど、当時は「計量した時に数字が全然安定せえへんな」と思っていました。
あとは、TWINSっていうメーカーのグローブを使った試合なんですが相手のTWINSグローブは本革なんですよね。なのに、僕のは合皮だったんですよ。 だから一緒のグローブにしてくれ、って言ったけど、断られて。
硬さも大きさも全然違うんですよ。
グローブのメーカーが違うっていうこともありました。僕がTWINSで、相手はTOP KINGだったんですが、相手のグローブはべっこべこなんですよ。見るからに使い古してる、「こいつジムから持ってきたグローブを使ってるやん!」みたいなこともありますね。
言ったらきりないぐらいありますね。フットワークが使えないようにリングがびちょびちょに濡れていたこともありますし…。
(写真前列、右から2番目が中村さん)
(本人提供)
―そんな過酷な環境で戦ってきたわけですが、2019年には、WBA バンタム級暫定チャンピオンのレイマート・ガバリョ選手と試合を行いましたね。この試合はどのように決まったのですか。
中村)前戦の中国での試合で中国の無敗の若手選手を結構ぼこぼこにしたんですよね。
判定はドローだったんですが。
それで、その試合後に評価してくれたのか面白いと思ってくれたのか、マッチメーカーに、「あなたはビッグマッチがしたいですか?」みたいなことを聞かれて。
後から知ったんですがアメリカにもルートを持つフィリピンのビッグプロモーターのサーマンプロモーションの人だったんですよ。
すぐに、「やるやる!」と言って、「また連絡ちょうだい!」みたいな(笑) 「試合の話あったら教えて!」みたいな感じでやっといたら、後日、マネージャーを通して連絡があったんです。
でも、何か月か空いてたので、その事を忘れてて。「そういえば前に話があったような…」と思いながら返事をしたんです。その時はちょうど飲みに行ってたので、帰ったら対戦相手の試合動画を見ようみたいな感じでいました。それで帰った後に軽い気持ちで試合動画見てみたら吐きそうになってきて(笑) WBA世界暫定王者で、無敗で成績もめちゃくちゃ強くて。
試合もアメリカ人とアメリカで戦って、ダウン取って勝ってるんですよ。「こいつ本物やん!」と思って、やると言ったものの、辞めとこかなと一瞬思いましたね(笑)
―フリーランスの日本人ボクサーがそこまでの大物とマッチメイクするのはすごいですね。
中村)僕は思考と感性が他の人とはちょっと違って、尚且つ行動力もある方なんです。海外に行った時も、初めはバックパッカーで行ったんですが翌月にはマンションを借りて住んでました。
―バックパッカーで苦労した体験もあれば聞かせてください。
中村)いろんな国の人と一緒になるのと、当時のフィリピンの治安がえぐかったので、めちゃくちゃ物がなくなるんですよ。ジム行ってて、帰ってきてなくなってるみたいな。しかもパンツばっか無くなるんですよ(笑) またなくなった、みたいな。寝る時とかも、ポーチを前につけたまま布団かぶって寝ていましたね。
―様々なバックグラウンドを持つ中村さんですが最近は「RIOT BOXING」という大会の運営をされていますよね。RDXもサプライヤーとして商品提供を行わせて頂いていますが簡単に大会の紹介と、今後の目標を教えてください。
中村)日本のボクシングって、プロボクシングもアマチュアボクシングも協会ってのがしっかりあるので、ジムや学校に所属しないと出られなかったり、ボクシングって意外と入り口が狭いんですよね。
プロでもなく、アマチュアでもなく、もっと入り口が広くて、誰でもボクシングに触れて戦える、新しいボクシングって形でイベントをやり出したという感じですね。
去年の予定では3回できたらいいなってところが4回できた。 今年も最低4回はやりたいですね。ただ新しい形のボクシングイベントって、正直難しい。あくまでボクシングなので。
エンタメ格闘技枠には入れたくない。間口は広げても雑にはしたくない。
もちろん選手全体のレベルが上がっていって、参加者が増えて、ボクシングを好きになってもらえるっていうのが1番の理想です。
たまに言われるんですよ。キックとかMMAも入れてみたいな。僕はボクシングが大好きなので。これからもやる事はなく、それはよそでやってくれっていうスタンスですね。
(本人提供)
フリーランスボクサーは僕で終わりだと思ってる
―もし今後ボクサーになりたいって言う方がいたら、中村さんの人生からその方にどのように伝えていこうと思ってますか。
中村)僕はボクシングをやったおかげで、いい思いもしたし、悪い思いもしました。世界チャンピオンと戦えた、世界の色んな国で戦えた、WBCアジアのベルトも取れた。なによりだれにでも話せる唯一無二の自分のプロボクシング生活に満足しています。ただ、その代償として僕は右目を失っている。
それでも自分に後悔は全くないので、いい方が勝ってるんだと思います。
自分が一生懸命やってきたから、今も体張って一生懸命やってるからこそ、ジムも繫盛をさせてもらってて、大会をしてもいろんな人が集まってくれる。自分の人望であったり、やってきたことが形になっているのかなと嬉しく思います。
これから海外でボクシングをやろうと思う人は、多分かなり厳しいと思いますね。
僕は閃きや直感を大事にしていたし、思考と感性が他者と違う事に自信を持ってやってきた。それプラス行動力もありリスクを平気で取れた。今後、僕以上はきっと出ないと思います。だからこそ今からやろうとしてる人に、簡単にできるよ、頑張れっていうのは言えないですね。
アマチュアボクシングでやりたい、プロボクシングでやりたいとか違いはありますけど、今後ボクシングをやっていくところまで踏み込んだのなら覚悟を持って頑張ってほしいと思いますね。
―最後にお聞きします、中村さんにとってプロとはなんですか。
中村)僕はプロボクサーっていうのは「それで食っていけてなんぼ」って思ってるんですよ。 プロボクサーっていう仕事で見たら、それで食べていけてるのがプロだと思うので。僕自身、ファイトマネーとか、スポンサーもやっぱ自分に付いてもらうために色々行動もしましたし。ブランディングをしっかりしたうえで、自分を商品として売り込んでいきました。
海外でも見せる試合をして、おもろい試合をして、客が見たいとか、興行主が面白いと思ってもらうのがプロ。練習を頑張るだけ、強くなるだけっていうのは、アマチュアだと僕は思います。
これらの話はあくまで『中村優也のボクシング人生』の話です。
―貴重な経験話を聞かせて頂きありがとうございました!
編集後記:今回のインタビューでは今までにない格闘家の人生を聞けて個人的にも視野を広げさせてもらったインタビューとなりました。色んな形のボクシングがあっていい、色んな選択肢が持てるボクシング業界であって欲しい。世界で戦ってきた中村さんだからこそ、その言葉が強く心に残りました。中村さんの現役生活は終わってしまいましたが、その足跡が後に、この世界を変えるきっかけになって欲しいと切に思いました。(RDX Japan編集部)
インタビュアー 上村隆介